ドラゴン「グィナス」

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城の地下から通じる秘密の通路を通って、王女マージルは外に出た。マージルは12歳になったばかりだ。王国はもう首都を残し陥落寸前だった。異人たちの猛攻はすさまじく、容赦がない。残された時間はもうわずかしかない。急がねばならなかった。

城の背後を守るハルツーム山の陰にマージルは駆け込みながら、山頂を見上げた。そこには見慣れた巨大なドラゴンの石像が安置されている。人はその像の足裏ほどしかない。ドラゴンの名はグィナスという。言い伝えでは、ただ一度だけ王国の危機を救ってくれるということだった。はるかな昔、彼は飛来したこの地で国の危機を救った。その見返りに眠りの地を求めたのだった。グィナスは自らを石と化し停滞の法で風化を防ぎ山頂で石の眠りについた。目覚めたならば立ち去らねばならぬ理由があるのだが、その記録は200年前の大火で焼失した。分かっているのは王家が祭祀を絶やすと魂も石になってしまうこと、王国の危機を救ったなら立ち去らねばならぬということ、目覚めさせるには純潔の少女の力が必要であることの三点だけだった。

マージルは、山頂に向かって走り続けた。転んでも、茨で傷を負っても、喉をからし、ひたすらに山頂を目指した。胸が轍を走る車輪のように暴れて心臓が破裂しそうだった。男の子まさりとはいえ、王宮で不自由なく育った12歳には厳しい道行だ。 道は、次第に険しく岩だらけになっていった。マージルはすでに靴も脱げ、素足になっていた。全身が傷だらけで頬は涙にぬれていた。山頂が近づくにつれ不安が高まり、また涙が頬を伝った。なぜならドラゴンをどうやって起こせばいいか知らなかったのだ。

彼女は遂にグィナスの足元の台座にたどり着いた。しかし台座は教会の塔ほどの高さがあり、よじ登るほどの体力はもうなかった。マージルは叫んだ。

「さあ、来たわよ。起きなさい」風が強く木々を揺さぶる音と彼女の激しい息遣いのみがこの場を支配している。 「どうすればいいのよ。お願い、グィナス。起きて」声を限りにマージルは叫んだ。叫びはやがて絶望の咆哮となり、悲しみのすすり泣きとなっていった。今日を限りに王国の歴史も人々の生活も終わってしまうのだ。町の人々も、犬や猫、馬や牛、兵士や母も父たる王も巨大な異人の大群に呑み込まれるのだ。自分は何もできない。マージルは、冷たい石の台座に、血と涙に濡れた顔を押し付け、むせび泣いた。

その時だった。彼女の血と涙の付いた部分から、台座にひびが走り、上に向かって伸びていった。同時にひびの内部から緑の光が溢れ、ひびを追いかけていった。それは、グィナスの右前足まで続くと、最初は指、足全体、そしてその全身をくまなく発光させた。マージルはその様子に気が付かなかった。 絶望と疲れで気を失いかけていたマージルの頭の中に突然声が響き渡った。

「我を目覚めさせたのは、汝か」マージルは驚き、思わず耳をふさいでしまった。そして目を大きく見開き、うえを見やった。そこにははるか上空から、普段は前を見ているドラゴンの顔が見下ろしていた。パラパラと小石が顔に降りかかった。

巨大な顔に似合わぬ丸い小さな目がマージルをじっと見つめた。「王都が危機なのだな?」グィナスはマージルの頭の中に問いかけた。マージルに恐怖と安堵が入り混じった感情がおしよとせた。「グィナス様、異人の大群が・・・」喉が渇き、張り付いているため満足に話すことも出来ない。 「なるほど、異種族の攻撃なのだな」マージルはグィナスの思考が頭の中を走査するのを感じた。「何も言わずとも良い。さあ王女マージルよ、ともに参ろう」グィナスはゆっくりと身を乗り出し、優しくマージルを掌で包み込むと、大きく羽ばたいた。